終戦記念日に想う

在宅の患者さんは、80代~90代の方がほとんどです。みなさん10代~20代のころに戦争を体験しています。今まで、戦地で銃撃され足に銃痕のある方や、大陸から命がけで日本に戻って来た方、広島で原爆に遭った方、シベリアに抑留されていた方など、壮絶な経験をなさった多くの方々にお会いしてきました。

戦争に行く前に料理人をしていた方は、シベリアに抑留されながらも、料理がソ連兵に気に入られ、ずっと料理番をさせられたので、生き延びることができたとおっしゃっていました。また、戦地で敵に見付からないように3日間も川に浸かった状態で潜んでいたという方もいました。ある女性の患者さんは、乳飲み子を抱いて引き揚げ船に乗り込む時、「もしこの子が船中で病気になったりしたら、海に投げ込むしかない」という悲愴な覚悟をしたそうです。

不思議なことに、認知症の方の中には、「朝ごはんは何を食べましたか?」という質問には答えられないのに、「戦争中はどこにいらっしゃいましたか?」という質問にはすらすらと答える方がいます。それは、戦争が忘れようにも忘れられないほど、心と身体に痛みを伴う過酷な体験だったためだと思われます。

 

私は、戦後10年以上経ってから生まれたので、戦争を体験していません。でも、幼い頃、上野公園で、戦争で手や足を失った兵隊さんたちが、道行く人からお金をもらっているのを見たことがあります。また母の兄や姉(私にとって伯父や伯母)の中には、戦争で亡くなった人がいます。生まれてからずっと、戦争を体験した方たちに囲まれて生きてきたため、私にとって戦争は他人事ではありません。

 

私の母方の伯父は、何年もシベリアに抑留されたのちに、奇跡的に生還してきた人です。でも、伯父は亡くなるまで、自ら戦争中の話をすることはありませんでした。ある時、私のドイツ人の友人が、両親とともに来日したことがありました。日光を観光したいと言うので、伯父に案内を頼み、伯父の運転で観光に出掛ける事になりました。もともと無口な上に、英語を話さない伯父が、後部座席のドイツ人一家の会話を聞いて、ぽつりと「あの人たちの言葉はロシア語に似ているな」と言いました。そこで、私は、彼等に「伯父があなたたちの話す言葉がロシア語に似ていると言っています」と言うと、友人は驚いて、「伯父さんはロシア語が分かるのか?」と尋ねました。そこで、伯父が数年の間シベリアに抑留されていたことを話すと、彼らはみな黙り込んでしまいました。実は、彼らは本当はチェコスロバキアの人たちで、1968年にチェコスロバキアにソビエトが侵攻して来た時、一家でドイツに亡命したのです。そのため、家族での会話はドイツ語ではなく、チェコ語だったのです。彼らが伯父の過去を聞いて、突然黙り込んでしまったので、私は何だか暗い空気になってしまったと慌てました。私が彼らだったら、「大変なご苦労をなさったのですね」などと、上辺だけの共感を示したかもしれません。でも、彼らは、沈黙により、もっと心の深い部分で伯父の受けた苦しみに寄り添ったのだと思います。そして、彼らが伯父の苦しみを理解できたということは、裏返せば、彼らの亡命もやはり命がけだったということになるのです。

 

学生時代に出会ったカトリックの神父様は、オーストリア人で、冗談ばかり言っていつも人を笑わせているような明るい方でした。でも、ある方から、神父様がもともとはチェコスロバキア人で、ソビエト軍が侵攻してきた時、国境の川を泳いでオーストリアに亡命したと聞きました。後年オーストリアを旅した時、あの川の向こう側がチェコスロバキアだと教えられ、その川幅の広さに愕然としました。神父様の笑顔の裏には、そんな壮絶な過去があるのか、人が抱える苦しみは表面からではとても分からないものだと思い知らされました。

 

戦争は、必ず痛みを伴います。たとえ身体が無事であっても、愛する人や懐かしい街並を失うこともあります。今まで私が出会った、戦争を経験したすべての人が、拭い去ることのできない痛みを抱えて生きています。

 

今日は終戦記念日。戦争が終わった日です。皆さまが経験した痛みに寄り添いながら、平和に感謝を捧げたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA